
「最近、全然キスしてくれないよね」
妻がそう言ったのは、夕食を食べ終えて二人でテレビを見ているときだった。
何か深刻な話をするつもりではなかった。
ただ、ふと思ったことを口にしただけ。
けれど夫は、一瞬だけ黙った。
「え?してるじゃん」
「いつ?」
「……行ってきますのとき」
「それ、ほっぺじゃん」
「キスには違いないでしょ」
妻は思わず笑った。
「それをキスって数えるんだ」
「数えるでしょ」
「数えないよ」
「じゃあ何なの?」
「いってらっしゃいの儀式」
「なんだそれ」
二人で少し笑った。
その場の空気は悪くならなかった。
でも妻の中には、なぜか小さな引っかかりが残った。
※この記事に登場する人物・会話は、テーマを分かりやすくするために作成した架空のケースです。
笑って終わったはずなのに、少しだけ寂しかった
結婚して何年か経つ。
付き合っていたころは、別にキスの回数なんて数えたことはなかった。
会えば自然に手をつないだ。
帰り際になると、もう少し一緒にいたいと思った。
くだらないLINEでも返事が来ればうれしかった。
でも今は、毎日同じ家に帰ってくる。
朝になれば会う。
夜になれば同じ部屋にいる。
わざわざ「会いたい」と言う必要もない。
それはそれで安心する。
なのに妻は時々、
「夫婦になると、こういうのってなくなるものなのかな」
と思うことがあった。
キスを毎日してほしいわけではない。
恋人みたいにベタベタしたいわけでもない。
ただ、あのころ自然にあったものが、気づいたらなくなっている。
そのことが少し寂しかった。
その夜、妻は少しだけ夫に近づいた
寝る時間になった。
妻が先にベッドに入る。
少し遅れて夫も入ってきた。
電気を消す。
暗くなる。
しばらく二人ともスマホを見ていた。
妻はスマホを置いた。
夫の背中が見える。
ほんの少しだけ近づいた。
肩が触れるか触れないかくらい。
夫が気づいたのか、少し体を動かした。
「明日早いから」
それだけ言って、反対側を向いた。
妻は一瞬、何も言えなかった。
「……別に、そういう意味じゃないよ」
「え?」
「何でもない」
夫は「そっか」と言って、そのまま目を閉じた。
妻も背中を向けた。
本当に、別に何かを求めていたわけじゃない。
……たぶん。
でも、少しくらいは期待していた。
手を伸ばしてくれるとか。
「どうしたの?」と聞いてくれるとか。
ほんの一瞬、こちらを向いてくれるとか。
そういう小さなことを。
「断られた」より「気づいてもらえなかった」が近かった
妻は布団の中で考えた。
さっきの何が嫌だったんだろう。
夫が疲れていることは分かっている。
明日早いことも知っている。
だから怒るようなことではない。
でも、胸の奥に少しだけチクッとするものが残った。
キスを断られたわけではない。
そもそも誘ってもいない。
ただ少し近づいただけ。
それなのに、
「明日早いから」
と言われた。
妻が感じたのは、
「断られた」
というより、
「私が近づいたことに、もう何も感じないのかな」
という寂しさだった。
翌朝、夫はいつも通りだった
朝。
夫はいつものようにコーヒーを飲んでいた。
妻は少し眠そうにトーストを焼いている。
「昨日、怒ってた?」
夫が突然言った。
妻は振り返った。
「怒ってないよ」
「なんか背中向けてたじゃん」
「あなたもでしょ」
「俺はいつもあっち向いて寝てるじゃん」
「そうだけど」
夫はコーヒーを一口飲んだ。
「キスの話?」
妻は少し恥ずかしくなった。
自分から言い出したくせに、改めて聞かれると急に恥ずかしい。
「別に」
「別にって言うとき、だいたい別にじゃないよね」
「うるさいな」
夫が少し笑った。
妻もつられて笑った。
そのまま終わるかと思った。
でも夫は、カップを置いてから言った。
「俺さ」
「うん」
「最近、そっちが嫌なのかと思ってた」
妻は思わず聞き返した。
「何が?」
「そういうの」
「……なんで?」
夫は夫で「もう嫌がられるかな」と思っていた
夫は少し言いにくそうに続けた。
「前にさ、俺がくっついたとき」
「あったっけ?」
「『暑い』って言ったじゃん」
妻は少し考えた。
「ああ……夏のとき?」
「たぶん」
「それ、本当に暑かっただけだよ」
「でもさ、そのあともスマホ見てたり、子どものことやってたりするし」
「うん」
「なんか、こっちから行くと邪魔かなって」
妻は黙った。
そんなふうに考えていたとは思わなかった。
夫は、キスをしたくなくなったわけではない。
妻を異性として見なくなったわけでもない。
むしろ、
「嫌がられたら嫌だな」
と思って、少しずつ距離を取っていた。
妻は妻で、
「もう私に興味がないのかな」
と思っていた。
お互い、相手の反応を勝手に想像していた。
そして、その想像に合わせて少しずつ距離を取っていた。
どちらも「拒まれたくない」と思っていた
ここで少し不思議なのは、
二人とも相手から距離を取っているのに、
本当は二人とも距離が近づいてほしいと思っていたことだ。
妻は、
「もう恋人みたいには見てもらえないのかな」
と思っていた。
夫は、
「もう触れたら嫌がられるのかな」
と思っていた。
どちらも相手を嫌いになったわけではない。
むしろ、
拒まれて傷つくのが嫌だから、自分から動かなくなっていただけ。
そんなこともあるのかもしれない。
「じゃあ、キスする?」
妻は少し笑いながら言った。
「じゃあ、キスする?」
夫が固まった。
「今?」
「今じゃなくてもいいけど」
「朝だよ?」
「朝だからダメなの?」
「いや……」
さっきまで普通に話していた夫が急に照れた。
妻はその顔を見て笑った。
「何その顔」
「いや、急に言うから」
「昨日は全然平気そうだったじゃん」
「昨日はそういう話じゃなかったし」
「そういう話って何?」
「もういいよ」
夫は立ち上がって、空になったカップをキッチンへ持っていった。
妻はその背中を見ながら少し笑った。
なんだ。
まだ照れるんだ。
それだけで、なぜか少し安心した。
欲しかったのはキスそのものではなかったのかもしれない
夫婦になれば、恋人だったころとは生活が変わる。
仕事がある。
家事がある。
子どもがいる家庭なら、二人だけの時間も減る。
疲れている日もある。
毎日キスをする夫婦もいれば、ほとんどしない夫婦もいる。
どちらが正しいという話ではない。
妻が寂しかったのも、
「キスをしてくれないから」
だけではなかった。
たぶん、
まだ自分を妻だけではなく、一人の女性として見てもらえているのか。
そこが少し不安だった。
そして夫も、
まだ妻に触れていいのか、
少し分からなくなっていた。
夫婦になって長く一緒にいるほど、
「言わなくても分かる」
と思ってしまう。
でも実際には、
言わないから分からないことも増えていく。
あの日、妻が何気なく言った、
「最近、全然キスしてくれないよね」
という一言。
夫にとっては、少し困る質問だった。
でも二人にとっては、
「最近、ちょっと距離があったよね」
と気づくきっかけになった。
キスが何回あるかより、
まだ相手に近づきたいと思えること。
そして、近づいてもいいと思えること。
二人が欲しかったのは、キスそのものよりも「まだ恋人だったころの自分たちが少し残っている」と感じる瞬間だったのかもしれません。

